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『花の生涯』(はなのしょうがい)は、1963年4月7日から12月29日までNHKで放映された1作目の大河ドラマ。 == 概要 == 原作は舟橋聖一が1952年から1953年まで『毎日新聞』紙上で連載した歴史小説『花の生涯』で、幕末の大老・井伊直弼の生涯を描いた作品である。視聴率は全話平均20.2%、最高で32.3%を記録した。松竹の専属俳優だった佐田啓二が初めてテレビドラマに出演した作品である。現在と異なり、基本の放送時間は日曜日の午後8時45分~午後9時30分であった、 1961年、NHKの芸能局長に就任した長沢泰治は、当時技術的にも稚拙で黎明期にあったテレビジョン放送をして映画を凌駕するものにすることを目指し、30分枠が主流だったテレビドラマに映画並のクオリティーと大衆の支持を得るべく、大作ドラマの制作を志向した。 いわゆる大河ドラマの構想は、当時NHKとRAI(イタリア放送協会)が合作で制作した『二つの橋』に参加した演出の合川明、井上博、脚本の北条誠が帰国してから具体化し、脚本の北条誠は『花の生涯』の舞台脚本を書いたことがあったため起用された。 当初から大スターを集めてのキャスティングが図られ、映画各社、歌舞伎座などを交渉した結果、松竹演劇部が「歌舞伎を一切休まない」ことを条件に、尾上松緑の出演を認めた。一方、原作者の船橋聖一は、ヒロインの村山たか役に、松竹で映画化された際に同じ役を演じた淡島千景を熱望した。さらにNHKは、長野主膳の役に同じ松竹の佐田啓二の起用を考えた。 映画俳優では当時、いわゆる「五社協定」があったため、映画各社の専属俳優はテレビには出演できず、NHKはプロデューサーの合川明が長沢芸能局長命令によって佐田啓二本人と出演交渉することとなった。合川は後にインタビューなどで当時の模様を語っている。資料により多少違いがあるが、佐田が出演を決めれば、淡島千景も出演するだろうというのがNHKのねらいだったという。何が何でも佐田を出演させろの指示の下、合川は佐田の自宅を尋ねたが佐田は難色を示した。とにかく原作本と企画書を預けて、それからは佐田家への日参が続いた。娘の中井貴恵や息子の中井貴一とは仲良くなり、宿題を教えたり、トランプをしたりしたという。佐田の相伴で高級バーに連れてってもらい、日頃は飲めない高級酒も飲ませてもらった。だがいくら通っても佐田は色よい返事をしない。ついにやけになった合川が、「出ていただけないなら原作と企画書は持って帰ります」と告げたところ、佐田は「ちょっと待って、合川ちゃん。もう少し詳しい話を聞かせて」と答えたという。佐田は当初、「出演なんかできないよ」と言っていたが、一方で小津安二郎監督や淡島千景に相談したり、ロサンゼルスの友人にも話を聞き、当時の進んだアメリカのテレビジョン放送の実情を知らされたという。こうして佐田は1962年夏に出演を決めた。佐田の出演によって「五社協定」が崩れ、淡島千景をはじめ映画俳優の出演が次々と決まることになった。 「桜田門外の変」は東映城(東映京都撮影所のオープンセット、現在の東映太秦映画村大手門)を借りて行われたが、このときの交渉は、後に大河演出のエースとなる大原誠が受け持った。東映城の屋根を白ペンキで塗って、事件当日の雪模様を再現したという。地面の雪は、トラック4台で運んだ白布を広げ、白砂を撒き、発泡スチロールを飛ばしたと言う。当初、東映との交渉は難航したが、いったん承諾すると東映側は、撮影に非常に協力的になったという。 多くの大物俳優が忙しいスケジュールを縫って出演するため、この作品からはじめて各シーンをバラバラ撮りする方法が採用された。それまでは、ストーリーの進行順に従って収録する手法が一般的だった。 尾上松緑は、昼は歌舞伎興行があったため、深夜にスタジオで収録にのぞんだという。歌舞伎の舞台に穴をあけないという条件での出演だったため、撮影の初日から、撮影終了後の帰宅が朝の5時となり、妻が松緑の健康を心配し、役を降ろしてほしいと迫ったという。最終的に午前3時までに返すという条件で撮影は続くことになる〔『大河ドラマの50年』鈴木嘉一 中央公論新社2011年〕。 後年、同タイトルのテレビドラマは日本テレビやテレビ東京でも放送された(『花の生涯』を参照)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花の生涯 (NHK大河ドラマ)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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